ROBERT SCHUMANN の楽器って? (98/4/7 記)
 

Robert Schumann の楽器ってなんだろう? Robert を象徴する楽器と置き換えてもよい。 他の作曲家、例えば、Chopin なら、誰だって、PIANO と答えるだろう。 Robert の場合は、何でしょうか???

「やっぱり PIANO だよ。」 確かに、PIANO かもしれない。 作品番号の1番から 23 番までが全てピアノ曲で占められている。 そのピアノ曲のどれもが、満天の星のもとのすばるの輝きのごとく、きらめいている。 先の Chopin でさえ、一桁の作品番号のなかにピアノ三重奏がはいっている。 Robert は、最初にビルトオーゾ・ピアニストを目指していたぐらいだし、愛妻の Clara は、19 世紀を代表するピアニストだ。 ピアノで決まりだよ。

「いやいや だよ。」 Robert の作品が、ドイツリートの中で占める位置づけを忘れてもらっては困るよ。 確かに Schubert ほどの数は残していないけどね。 誰が何と言っても、やっぱり声だよ。

私 n'Guin の考えは、そのどちらでもありません。
「Robert の楽器は、頭(頭脳)だよ。」 というのが、私の考えです。 最初に断っておきますけど、これは、私のオリジナルではありません。 世界的な Schumann 研究家の 前田 昭雄 氏、あるいは、指揮者のサバリッシュ氏が、対談か何かの時に、こんなことをもらしておられたのを、聞き知って、我が意を得たりと感じたことに端を発しています。 今回は、「Robert の楽器は、頭(頭脳)」であることを示すために、PIANO の楽譜を読みながら、見ていきたいと思います。

Symphonische Etuden (2.5 K)
交響的練習曲 op. 13 より "Thema"

まずは、わかりやすい例から、始めましょう。 上の例(Ex. 1)を見てください。 交響的練習曲(Symphonische Etden op. 13)の最初のテーマの最後のところです。 赤丸で囲んであるクレッシェンドを見てください。 最後の音を引き終わってから、クレッシェンドが書いてあります。 誰もが知っているように、ピアノの音を引き終わってから、その音を強くすることは、不可能です。 打鍵にわずかに遅れて、ペダルを踏むことで、響きを若干強めにはできますが、姑息的な手段で、しかも多くは望めません。 管楽器なら、こういうことは容易ですが、鍵盤楽器でこういうことができるのは、オルガンぐらいしかありません。 (ミニミニ MIDI 講座: MIDI なら、アコースティックピアノでも、expression をあげることで容易に実現できます。) もちろん、交響的練習曲をオルガンでひくなんていうのは、ナンセンスです。 Robert は、音を出し終わってからも、気を抜かずに、音量がなくならないように、響かせるように、というつもりで、こう書いたのでしょう。

Carnaval (2 K)
カーニバル op. 9 より "Sphinxs"

次にいきましょう。 上の例(Ex. 2)は、カーニバル(Carnaval op. 9)より、第曲 Replique と第曲 Pappilons との間にくる曲です。 「おいおい、n'Guin よ。 ついに狂ったか? 第8曲と第9曲の間に曲が入るはずないだろう!」と言われそうですが、入ってるんですね。 上の楽譜にも、ドイツ語で説明が入っています。 日本語に直訳すると、「"Sphinxs" は、演奏されるべきではない。」となります。 演奏する人の心の中でだけ鳴り響く曲なのです。 どうですか。 あきれてものが言えないでしょう。

Humoreske (5 K)
フモレスケ op. 20 より

だめ押しといきましょう。 上記の例(Ex. 3)は、フモレスケ(op. 20)からです。 本当は、これが1ページ続くのですが、4小節の掲示でかんべんしてください。 まず、最初に大きな赤丸をみてください。 Innere Stimme (内なる声)と書いてあります。 説明が、やはり下にドイツ語で書いてあります。 直訳すると、「この内なる声は、いっしょに演奏されてはならない。 演奏家は、行間を読むがごとく、この内なる声を読まなければならない。」とあります。 要するに、心の中では、この音が鳴っているがごとく、演奏しなさい、という指定ということになります。 小さな丸の方は、最初の例と同じです。 既に弾いてしまった音に対して、デクレッシェンドが指示してありますが、これを実際にコントロールすることは、不可能です。

いかがでしたでしょうか。 今回は、できるだけ、わかりやすい例を取ってみました。 Schumann にとって、ピアノ曲とは、ピアノの音で奏されるべき、頭の中の音楽だということの一端がおわかりいただけたのではないかと思います。 漢詩や俳句などで、韻を踏む表現というのがありますが、Schumann の曲には、同様にリズムやメロディで韻をふんでいると思われる箇所が、多数あります。 こういう面白さは、楽譜を見ながら演奏を聴かないと、その面白さが理解できません。 もちろん、そういう楽しみ方も、ひとつの楽しみ方でしかありませんが、我々の Schumann の音楽への理解を、また一歩進めてくれることは間違いないでしょう。

みなさまのご意見、苦情等がございましたら、
n'Guin までメールをください。  お待ちしております。

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