ROBERT SCHUMANN の生涯 | (98/2/8 暫定版 3/24 改訂版 99/4/18 再改定版) |
生まれ故郷の Zwickau には、Robert の生家が Robert Schumann
博物館として、保存されています。 Zwickau への旅行記は、我楽多(がらくた)箱のコーナーに掲載してあります。 どうぞ、写真などの画像もご覧ください。。
Zwickau での幼年時代 (1810 - 28)
1810 年 6 月 8 日 |
父 Freiedrich August Schumann, 母 Johane Christiane (旧姓 Schnabel) のもと、Zwickau に生まれる。 |
1810 年 |
Chopin もSchumann と同年生まれ。 Mendelssohn は、一年早く 1809 年生まれ。 Beethoven の交響曲は、このころ第6番まで |
1813 年 |
Wagner 生まれる。 Verdi 生まれる。 |
1817 年頃
( 7 才)
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ピアノの手ほどきを受け始める。 |
1819 年 9 月 13 日 |
Clara Josephine Wieck、Leipzig に生まれる。 |
1820 年〜
( 10 才)
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ギムナジウム時代。 出版業を営む父の影響もあってか、文学や詩に興味を示す。 音楽に対する才能もあり、自己流ながら合唱とオーケストラの ための賛美歌を作曲したほど。 |
1824 年 |
Beethoven 交響曲第9番 Schubert 弦楽四重奏曲「死と乙女」D.810 アルペジオーネ・ソナタイ短調D.821 など。 |
1826 年
( 16 才)
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父、死す。 |
1827 年 |
Beethoven 死す |
1828 年
( 18 才)
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ギムナジウムを卒業。 家族のすすめもあって、Leipzig の大学へ進学。 |
1828 年 |
Schubert 死す Paganini ヨーロッパ各地で演奏旅行、大成功をおさめる。 |
Leipzig, Heidelberg での勉学時代 (1828 - 33)法科に入学した Robert ですが、音楽への思いを断ちきれず、パガニーニの影響もあって、ビルトオーゾ・ピアニスト(超絶技巧をもったピアニスト)を目指します。 しかし、指の故障により作曲家への道を歩み始めます。 このころに、ピアノ教師の Wieck の娘(Robert にとっては恩師の娘)、天才少女ピアニストの Clara に出会います。
1828 年
( 18 才)
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家族のすすめもあって、大学では、法学を専攻するが 音楽への情熱は押さえがたく、Freidrich Wieck に ピアノを師事 |
1828 年
( 9 才)
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Clara: Leipzig Gewandhaus にてピアニストとしてデビュー。 |
1829 年
( 19 才)
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5月より、Heidelberg に移る。 ピアノへ没頭した 生活をおくる。 コンサートを開き、好評を呈した。 |
1830 年
( 20 才)
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3月の復活祭を Frankfurt で過ごし、「悪魔のバイオリニスト」
ともいわれた Paganini の演奏を聴く。 これが契機となり、
再三の母親の懇願にもかかわらず、法科を退学。
Freidrich Wieck にピアノを師事するため、Leipzig にもどる。 Abegg-Variationen op.1 fr Klavier. |
1830 年
( 11 才)
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Clara: Leipzig Gewandhaus にてピアノリサイタルを 開催し、成功。 |
1830 年 |
Berlioz 幻想交響曲 op. 14 |
1831 年 ( 21 才)
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作曲法を Heinrich Dorn に師事。 1日6〜7時間をピアノの練習に
費やす生活。 右第2・3指の障害に気づき、治療を試みるがことごとく失敗する。 この指の機能障害は、(1) 進行性梅毒の初期症状 (2) 指の強化のために用いた器具による障害 などの説がある。 (詳細は、我楽多箱・指の故障・死因の謎にて) Papillons op. 2 fr Klavier. |
1831 〜 32 年 ( 13 才)
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Clara: Paris, Leipzig などで、ピアノリサイタルを開催し、 各地で絶賛される。 Robert が作曲した曲が、そのコンサートで演奏される。 |
1833 年 5 月 7 日 |
Johanes Brahms 生まれる。 |
1833 年
( 23 才)
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指の障害もあって、憂鬱な日々を送る。 初回の自殺未遂事件(10 月) |
Leipzig での活躍の日々 (1834 - 44)作曲活動の傍ら、die Neue Zeitschrift fr Musik(音楽新報)という雑誌の編集人となり、音楽評論を始めます。 無名の新人だった Chopin を見いだしたのは、このころです。 一般に、同時代の音楽批評を、後世の視点から見た場合には、多くの誤謬が付き物ですが、Robert の音楽批評は、現代にも通用しえるものだといえましょう。
初めて会ったときには子供だった Clara が成長して、Robert は、結婚相手として考えるようになりますが、Clara の父に頑強に反対されます。 二人は、裁判に訴えて、結婚を勝ち取ります。 Robert Schumann の短い生涯において、もっとも幸せだったひとときでしょう。 この幸せの時に、珠玉のようなピアノ曲、歌曲、室内楽曲が多数生み出されています。
1834 年 ( 24 才)
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die Neue Zeitschrift fr Musik (以降、 NZfM と略す、
邦訳:音楽新報)を発刊、編集人となる。
Ernestine von Fricken が、Wieck にピアノを師事し、
翌年まで滞在。 Robert と Ernestine とが恋仲となる。
密かに婚約したという説もある。 Carnaval op. 9., Sinfonische Etden op. 13 |
1835 年
( 25 才)
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8月に Felix Mendelssohn と知り合う。
NZfM にて、初期の作品しか発表していない Chopin を
見いだし、「天才があらわれた」と紹介。
また、同誌にて Berlioz の幻想交響曲を紹介。
Ernestine との別離。 Klaviersonaten Nr. 1 fis-moll op. 11 完成 |
1835 年
( 16 才)
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4 月に ドイツ各地からのコンサート旅行から帰り、
Robert と過ごす時間が増える。
11 月 25 日、Robert とのファーストキス |
1836 年
( 26 才)
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Robert の母、死す。 Clara への思いはつのるが、Clara の父 Wieck に拒絶 され、引き離される。父の命で、Clara が Robert の手紙 を送り返し、誤解を生ずるが、翌年まで、Clara に会えず。 Fantasie C-Dur op. 17 |
1837 年 ( 27 才)
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Clara 18 才の誕生日に、Robert 再度、Clara の父に、婚約
を申し入れるが、失敗に終わる。 Davidsbndlertnze op. 6, Fantasiestcke op. 12 |
1838 年
( 28 才)
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数ヶ月を Wien で過ごす。 Franz Schubert の第9交響曲
ハ長調を発見。 Kinderszenen op. 15, Kreisleriana op. 16, Noveletten op. 21 |
1839 年
( 29 才)
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Clara と初めていっしょにクリスマスを迎える。
Berlin にて、幸せをかみしめる日々。 Kraviersonate Nr. 2 g-Moll op. 22, Humoreske op 20 Faschingsschwank aus Wien Fantasiebilder fr Klavier op. 26, Drei Romanzen op. 28 |
1840 年
( 30 才)
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歌曲の年 Universitt Jena より、Ehrendoktorat(名誉博士号)を 授与される。 9 月 12 日 Clara と結婚。 Liederkreis op. 24, Myrthen op. 25, Liederkreis op. 39, Frauenliebe und -leben op. 42, Dichterliebe op. 48.. |
1840 年
( 21 才)
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Clara: 6 月に Leipzig にもどる。 7 月には裁判所から
父の承諾なく結婚できることを認められる。
9 月 12 日 結婚式を挙げる。 (誕生日の前日:結婚したのは 20 才の最終日) |
1840 年 |
Tchiaikovsky 生まれる。 Paganini 死す。 |
1841 年
( 31 才)
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交響曲の年 Sinfonie Nr. 1 "Frhlingsinfonie" B-Dur op. 38 Sinfonie Nr. 4, op. 120 の初校など |
1841 年
( 22 才)
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Clara: 3 月に Gewandhaus で、Clara Schumann としての
初のコンサートを開く。 第一子(長女)出産(Marie 1841 - 1929) |
1841 年 |
Dvorak 生まれる。 |
1842 年
( 32 才)
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室内楽の年 Streichquartette op. 41, 1-3, Klavierquintett Es-Dur op.44 Klavierquartett Es-Dur op. 47, Fantasiestcke fr Klaviertrio op. 88 |
1843 年
( 33 才)
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Mendelssohn が Schumann 夫妻を訪れる。
Robert、12 月に指揮者としてデビュー Das Paradies und die Peri op. 50 |
1843 年
( 24 才)
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Clara: 父との和解 第二子(二女)出産(Elise 1843 - 1928) |
1843 年 |
Wagner Dresden の宮廷指揮者に就任 |
1844 年
( 34 才)
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Clara と共に、ロシアへの演奏旅行に出る。
帰国後も、精神状態が安定せず、Dresden に
転地療養に出る。 12 月に家族ごと転居 |
Dresden での活躍の日々 (1844 - 50)幸せの時をかみしめる Schumann 夫妻であったが、Robert の精神障害が発症し、その転地療養先だった Dresden に転居することとなる。 合唱曲などの作曲を続ける一方、指揮者としても経験を積んだ。 1850 年には、Dsseldorf 歌劇場の音楽監督として、招かれることとなる。
1845 年
( 35 才)
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精神状態は落ち着かないものの、活動を開始。 Clara を独奏者に、Klavierkonzert a-Moll op. 54 を初演。 Wagner と親しくなる。 Tanhuser に感動する。 |
1845 年
( 26 才)
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Clara: 第三子(三女)出産(Julie 1845 - 1871) |
1846 年
( 36 才)
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健康状態は小康状態を保つ。 Sinfonie Nr. 2 C-Dur op. 61 |
1846 年
( 27 才)
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Clara: 第四子(長男)出産(Emil 1846 - 1847) |
1847 年
( 37 才)
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生まれ故郷の Zwickau にて、第1回 Schumannfest 開催
される。 Klaviertrios d-Moll op. 63 und F-Dur op. 80 |
1847 年
( 28 才)
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Clara: 第四子(長男)1 才 4 カ月にて死す。 |
1847 年 |
友人の作曲家 Mendelssohn 死す。 |
1848 年
( 38 才)
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Oper Genoveva op. 81, Album fr die Jugend op. 68 |
1848 年
( 29 才)
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Clara: 第五子(二男)出産(Ludwig 1848 - 99) |
1849 年 |
Dresden にて、革命勃発 |
1849 年 ( 39 才)
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Konzertstck fr 4 Hrner und Orchester, F-Dur, op. 86, Konzertstck fr Klavier und Orchester, G-Dur, op. 92, Waldszenen op. 82, Requiem fr Mignon op. 98b など、室内楽小品、合唱曲小品など多数 |
1849 年
( 30 才)
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Clara: 第六子(三男)出産(Ferdinand 1849 - 91) |
1849 年 |
Chopin 死す |
1850 年
( 40 才)
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Dsseldorf Musikdirektor の職を得て、8 月に、 Dsseldorf に転居。 |
Desseldorf での活躍の日々(1850 - 54)Desseldorf の音楽監督に就任後、第3交響曲「ライン」(Op. 97)を完成させ、一時は、精神障害も小康を得たかに見えたが、精神障害は悪化の一途をたどった。 指揮者としては徐々に聴衆や楽団員の信望を失い、次第に世間から身を引く生活にはいる。 1853 年に Brahms の来訪を受け、かつては自らが編集人であった、die Neue Zeitschrift fr Musik(音楽新報)に、Neue Bahnen(新しき道)と称して、Brahms 礼賛の投稿を行い、Brahms を世に知らしめた。
1850 年
( 40 才)
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9 月に、Desseldorf へ転居 Sinfonie Nr. 3, Es-Dur op. 97 "Rheinische" Cellokonzert a-Moll op. 129, |
1851 年 ( 41 才)
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精神状態は、悪化の一途。 Der Rose Pilgerfahrt op. 112, Kraviertrio g-moll op. 110 Violinsonaten a-Moll op. 105 und d-Moll op 121, Sinfonie Nr. 4 d-Moll op. 120 |
1851 年
( 32 才)
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Clara: 第七子(四女)出産(Euginie 1851 - 1938) |
1852 年
( 42 才)
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4 月から 12 月まで、精神状態は一層悪化。 die Gedichte der Knigin Maria Stuart op. 135 Messe op. 147, Requiem op. 148 |
1853 年
( 43 才)
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精神状態はさらに悪化。 Brahms 来訪。 自分がかつて編集していた NZfM (音楽新報)に、Neue Bahnen(新しき道)と 称して、Brahms 礼賛の投稿。 Konzert-Allegro mit Introduktion fr Klavier und Orchestrer op 134 |
晩年以降(1854 - )精神障害はさらに悪化。 1854 年には、ライン河に投身自殺を図る。 幸い、一命を取り留めたものの、そのまま精神病院に収用され、 シューマンの死後、生涯独身で過ごしたブラームスと未亡人クララとの間に30年にわたり続いた友情も有名である
1854 年
( 44 才)
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精神状態は悪化の一途をたどり、2 月 27 日ライン河に 投身自殺を図る。 救出されたが、Kln 郊外の Endenich の精神病院(脳病院)に収用される。 |
1854 年
( 35 才)
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Clara: 第八子(四男)出産(Felix 1854 - 1879) |
1855 年
( 45 才)
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精神病院収容後、Robert は回復の兆しをみせ、会話や 書字等も可能となり、Clara とは手紙でやりとりをする。 しかし、回復は一時的で、次第に全身の麻痺が進行し、 けいれん発作も頻発するようになる。 |
1856 年 7 月 29 日 |
Robert 死す。 (享年 46 才) |
1860 年 |
Mahler 生まれる。 |
1862 年 |
Debussy 生まれる。 |
1873 年
( 54 才)
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Clara: 父 Friedrich 死す。 (享年 88 才) |
1876 年 |
Brahms 交響曲第一番 |
1883 年 |
Wagner 死す |
1896 年 5 月 20 日 |
Clara 死す。 (享年 76 才) |
1897 年 4 月 3 日 |
Johanes Brahms 死す。 (享年 64 才) |